小学生に挨拶をされた

極々普通なことのはずなのに何故か複雑な心持ちになったので書きます。

 

散歩の帰りに小学生に挨拶をされた。

普段散歩するときは週1で10kmほどの距離を1人か、友人と2人で適当に歩くのだけど、今回の散歩はただの買い出しついでだったのでそんなには歩いていない。

買い出しが終わって適当に遠回りしながら、いつも同じ場所の陰で寝ていらっしゃる猫に会って、家に帰っていると曲がり角から小学校低学年くらいの風貌の少年が歩いて来るのが見えた。

僕を見るなりその小学生は挨拶をしてきた。挨拶をしてきてくれた。「こんにちは」って。正確には僕はその挨拶のような、状況的に挨拶であろう音声をはっきりとは聞き取れなかったので、もしかすると挨拶ではなく、時間帯にしてはみすぼらしい服装をしていた僕の悪口を言っていたかもしれない。

小さな声で少し距離もあったので独り言かなにかかなと思いスルーしたが、確実に両者が意識し合えるくらいの距離になるとまた「こんにちは」と挨拶をしてくれた。

しかし僕は何故かポーカーで大ブラフがバレたときくらい動揺してしまい、「こんにちは」と挨拶を返しはしたものの、しばらくの間動悸がした。

凄く意味不明で延々と考えていた。

元々田舎の最果てみたいな、ジブリのアニメで描かれるくらいの地方の出で、(ジブリはあまり見たことないけど)地域の人達はほとんど顔見知り、学校から帰ると「おかえり」と言われ、なんて返すか迷いに迷った結果「ただいまです」に落ち着いたのは懐かしい。そのくらいフレンドリーな環境に身を置いていた。僕も小学はもちろん中学、高校でも見知らぬ人でも挨拶をするのは常識的なことだと考えていたので小学生からの挨拶に驚く理由がない。

僕自身、話すのが得意かと言われるとそうではないし、人見知りか人見知りではないかと言われると人見知りの部類だと思うけども、挨拶も返せないほど人間が苦手なわけでもない。

じゃあ単純にドッキリ的な、コラおじさん的な、急に声を出されたことへの驚きなのか。でも小学生の存在は挨拶をされる前から視認していたし、事実として地元で挨拶されていた時は何事もなく挨拶を返していたのでこれも違う。

などと考えている内にその場の状況的な要因が直接に作用しているわけではないのではないかと思い始めた。

僕が小学生の時、何気なくしていた挨拶の対象は周りの、地域の大人であった。しかし同学年や中学生、高校生と会っても挨拶はしていなかった。自分が知る限りは他の子もそれと同じ様なラインで挨拶の有無を決めていたと思う。

高校生以下とそれより上、このラインははっきりしているようで、していない。成人した今でも中身は高校生のままな感じがする。それにこの感覚は何年経とうとずっと続く気もする。

もちろん成人式や卒業式での「大人としての自覚を持て」という"大人からの"ありがたい言葉だとか、選挙権がどうのだとか、飲酒喫煙がどうのだとかで大人としてのラインは形式上越えてきたはずであったが、その全てにおいて何にも変わらなかった僕を小学生の挨拶が強制的に大人にしたようで、激しく抉られた気がした。

かといって何かが変わる訳では無いのだが、純粋無垢で何の悪気も無いであろう小学生の挨拶のひとことがこんなに複雑で気色の悪い心情を抱かせるのかと底知れない怖さを感じた。

という話。

 

 

なんだか大人がどうとか恥ずかしいブログを書いている気がする。消すかも